館林女子高校
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館女つれづれ






               
館女つれづれ

館林女子高校の歴史に関する話題を、「館女つれづれ」として皆様に紹介します。




 本校は1917(大正6)年に開校しました。
 同年11月17日に新渡戸稲造氏の講演会が、本校が校舎の一部を間借りした現在の館林市立第一小学校で開催されました。上の写真は、その時に新渡戸氏から本校に贈られた書です。
 「理想を高くするということが必要である」と説く新渡戸氏は、女子教育にも熱心でした。新渡戸氏の本校生徒に対する温かな励ましが「Boys be ambitious」の中に込められているのではないでしょうか。




 上の写真は1923(大正12)年、本校が現在の地に移転して間もなくのものです。
 本校が移転する前は、この地に群馬県立館林農業学校(現在の大泉高等学校)がありました。
 歴史を遡ると、太田中学校(現在の太田高等学校)の館林分校が設置されたのも、この地です。さらに、館林中学校(現在の館林高等学校)も開校当初(校舎が建設されるまでの期間)、群馬県立館林農業学校の一部を間借りしていました。
 この尾曳の地は、邑楽・館林地区の中等教育発祥の地と言えます。




 上の写真は1935(昭和10)年、館林裁縫女学校の写真です。 1923(大正12)年に設立された館林裁縫学校の経営を石井ウノヱ氏が引き継ぐ形で、1930(昭和5)年に設立した学校です。 同校は後に館林高等家政学校と改名し、1946(昭和21)年に館林町に移管され、町立学校となりました。戦後の学制改革の中、1948(昭和23)年に県立に移管され、群馬県立館林女子高等学校分校と改名し、家庭科の生徒が通学していました。 1954(昭和29)年に、本校と統合するまで、多くの生徒がこの学校で学びました。




 上の写真は、本校所蔵のものです。この中には疎開による転入生の名前もあります。本土への空襲の激化とともに、本校に疎開してくる生徒の数も増加しました。疎開してきて、戦後地元に戻らず本校に入学した生徒もいます。
 焼け出されて疎開してきた方は、隣席の地元の生徒に教科書を見せてもらいながら勉強したとのことでした。敗戦後は満州や朝鮮から引き揚げてきた転入生や、東京方面に戻る生徒もいました。生徒の数も増え、昭和20年12月14日には生徒数が1,027名になっています。当時の定員は600名でした。




 上の写真は、昭和22年9月17日の教務日誌の一部です。
 群馬県をはじめとする関東地方に大きな被害を与えたカスリーン台風通過直後の、本校生の出席状況が示されています。711名の生徒の中で、305名しか登校していません。前日16日の教務日誌には「矢場川、谷田川、渡良瀬川等氾濫尚増水ノ報アリ 明日ノ登校不能ノ生徒モ多数ノ見込ミ 東武線復旧セズ」と記されています。しばらくの間、通常の授業ができませんでした。「堤で手が洗える」という言葉がある邑楽地域ですが、職員並びに多くの生徒が被災しました。




 1941(昭和16)年度卒業の本校生が、厚生病院で看護講習を受けた際の写真です。
 第二次世界大戦中に、本校生徒は厚生病院で看護講習を受けていました。卒業生の方は「厚生病院で包帯の巻き方等を教わる。学年全員が参加し、小児科や外科等に分かれ、短期間の講習だった」と語っています。
 「群馬県報」によりますと、1945(昭和20)年3月には県下の女学校は、すべて看護婦学校(原文ママ)に指定されています。もし、本土決戦が行われていたら、本校生徒にも「ひめゆり部隊」と同様の運命が待ち受けていたかもしれません。




 上の写真は、2019(令和元)年の学校案内です。桜の咲き誇る正門の前で、マンドリン・ギター部の生徒たちが楽器を抱えています。正門前の桜の木は、長い間本校のシンボルでした。
 しかし、現在は1本もありません。特定外来生物のクビアカツヤカミキリの食害に逢い、伐採されました。館林市内の桜の木々も被害を受け、多くの木が伐採されています。クビアカツヤカミキリのため、美しい景観が失われるのは、非常に残念なことです。




 上の写真は、1991(平成3)年9月5日に設楽(井野口)文枝氏が来校された時に撮影されました。左側が設楽氏、右側が当時の同窓会長の金澤登志子氏です。
 設楽氏は、本校在学中に「海外事情研究部」に所属し、卒業後ブラジルに渡りました。ブラジルでは、パラナ州にあるカストロ日本語学校で日本語教師として勤務され、同校の校長を30年以上も務めていらっしゃいます。「日本語の継承・普及に貢献」されたことにより、2021(令和3)年には在外公館長表彰を授与されました。



 「館女つれづれ8」の中で、「海外事情研究部」について触れました。どのような部であったのか、説明します。
 昭和30年代、群馬県は海外移住に力をいれていました。海外移住知識の普及をはかるため、「高等学校拓殖訓練講習会」が教育委員会及び海外協会の主催で、当時箕郷町(現高崎市)にあった県営伝習農場において行われています。昭和35年7月に行われた講習会には、本校からも9名の生徒が参加しています。「海外事情研究部」は創立されたばかりでした。
 県内の各高校にも、海外移住を研究するクラブが相次いで創立されました。農業高校がほとんどであった中、本校は普通科、しかも女子校として唯一の存在でした。


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 上の写真は、第1回強歩大会の完歩者に与えられたメダルです。表は「完歩賞 40q 強歩大会」、裏は「第1回 昭和59年度 館林女子高等学校同窓会」の文字が刻印されています。
 強歩大会は、1984(昭和59)年の4月29日に行われました。最初は、利根川河川敷に集合し40q歩きましたが、2008(平成20)年に31qに変更しました。長年の間、本校の伝統行事として定着していました。しかし、生徒数の減少及び生徒の安全確保の観点から、令和元年度で終了となりました。


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 1997(平成9)年6月8日(日)、ボート部(当時は漕艇部)の新艇進水式が行われました。上の写真は、その時のものです。
 「あかぎ国体」の漕艇競技の練習コースとして城沼が選ばれた結果、本校と館林高校にボート部が誕生しました。40年をこえる歴史の中で、多くの生徒が活躍しました。そして、1997年にはインターハイで舵手付フォアが全国3位となっています。
 同窓会から寄附された新艇ですが、2023(令和5)年を迎えても現役です。ただし、最近は老朽化が目立ってきました。


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 1976(昭和51)年8月、長野県松本市で行われたインターハイで、テニス(軟式)部が団体戦3位という成績を収めました。左の写真は、表彰式の様子です。当時、本校のテニス部は全国に名を轟かせていました。
 右側の写真は、1979(昭和54)年10月29日に撮影されたものです。正面にテニスコートが見えますが、現在とは異なり、校庭の南西にあります。また、南側には当時の部室(1階建て。校地拡張工事に伴い、設置されて数年後に取り壊されました)や神戸生絲の工場も見えます。


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 上の写真は、1920(大正9)年3月に本校を卒業した生徒の作品です。
 当時、本校は「館林町立実科高等女学校」という校名で、卒業時には生徒の書と絵を集めた「卒業記念帖」をつくりました。


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 上の写真は、本校の校章と校旗の変更の歴史です。改めて見ると、歴史の重みを感じますね。館女八十周年記念誌から抜粋しました。


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 今回は、制服の変遷を見ていきましょう。さすが100年以上の歴史を持つ館林女子高等学校ですね。大正時代から現代までの制服ですが、時代を感じますね。どの制服も、今で言うならば、Cool ですね。
館女八十周年記念誌から抜粋しました。

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 写真は、本校の生徒会誌「沼波」から抜粋しました。文化祭のプログラムとステージの様子です。発表が盛りだくさんで活気がありますね。Cool!「沼波」No.62(平成26年)から抜粋しました。


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 写真は、本校の生徒会誌「沼波」から抜粋しました。開校記念式典次第と講演会の様子です。館女には立派な卒業生がたくさんいますね。Cool!「沼波」No.62(平成26年)から抜粋しました。


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 写真は、「館女八十周年記念史」から抜粋しました。学校施設の変遷です。現在のような鉄筋の建物の良さ、美しさもありますが、昔の木造建造物にも、木造の良さ、美しさや温かさ、そして荘厳さを感じさせてくれますね。



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